「時間があること」と「動けること」は、たぶん違う。平日の私が、シャワーを待つ数十秒に掃除をできない理由。

手触りのある日常

休日のある日、お風呂に入ろうとして、シャワーの水が温まるまでの数十秒という短い時間があった。

私はその時間を利用して、前から少し気になっていた浴室の水あかを軽く掃除した。わざわざ「さあ、掃除をしよう」と時間を切り出したわけじゃない。

普段の、平日の仕事がある日なら、この数十秒間は「早く温まらないかなあ」と、ただじっと待っているだけの時間になる。

「今のうちにちょっと洗えるんじゃないか」って、頭の隅っこで分かってはいても、平日の私は絶対に体が動かない。

平日も休日も、シャワーが温まるまでの「数十秒」の長さは、何も変わらない。それなのに、どうして平日の私はできなくて、休日の私は、あたりまえみたいに手が動いたんだろう。

その時に感じた、時間の有無と、心の中のゆとりについて、私が思ったことをそのまま書いておこうと思う。

「平日はできない」という現実の構造

「平日は忙しくて時間がないからできない」って、よく言ったりする。

けれど本当は、「時間はちゃんとあるけれど、心の中の余裕がどこにも残っていないから動けない」というのが、本当のところなんだと思う。

人間が何かをしようと動くときには、やっぱりそれなりの、心のゆとりが必要になる。特に平日の仕事の日は、朝から夕方まで働いて、人と関わって、社会の中で色々なことに気を遣っている。『あのメールの返信、どうしよう』『明日の会議の準備をしなきゃ』と頭がフル回転している平日は、それだけで頭も体もすっかり疲れてしまう。

そんな「心の余裕がゼロ」のときに、目の前にぽつんと数十秒の隙間時間が現れても、それを別の行動に使うための元気が、私には残っていない。だから、ただぼんやりと待つことしかできなくなる。それは、疲れた体としては、ごく自然な反応なんだと思う。

「意識を変えればできる」とか「がんばりが足りない」とか、そういうことじゃない。心の余裕が本当にないときは、物理的に体が動かない。それが、私の現実。

休日に同じ数十秒で動けたのは、仕事のプレッシャーや毎日のタスクから解放されて、心の中に、ちょっとした空き地のようなゆとりがあったから。

【平日の状態】
時間はある(数十秒) × 心の余裕がない = 行動できない

【休日の状態】
時間はある(数十秒) × 心の余裕がある = 行動できる

「時間があること」と「動けること」は、全然別のものなんだと、私は区別して考えている。

意思に頼らない生活の選択肢

心の中の余裕を、根性や「明日から意識を高めよう」なんていう気持ちだけで無理やり作り出すのは、私には無理だ。

疲れている状態のままで、やることだけを増やすなんて、結局どこかでガタがきてしまう。

心の余裕が全くない平日は、ただシャワーが温まるのをじっと待つ。それでいいのだと思う。

そして、休日みたいに、生活の中に少しゆとりが戻ってきたタイミングで、その時に残っている心を使って、自分の納得のいく形で身の回りの手入れ(水あか掃除なんか)を淡々とやれば、日々の生活はちゃんと回っていく。

必要なのは、時間をきっちり管理して自分を追い詰めることじゃなくて、今、自分の心にどれくらいのゆとりがあるのかをじっと見つめて、できない日は「あぁ、今日はできないんだな。よく頑張ってる証拠だ」って、そのぼんやりした時間をそのまま自分に許してあげることなんだと思う。

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